第十六章 ユダヤ人とポーランド人孤児を救った日本人



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 映画「シンドラーのリスト」で有名なオスカー・シンドラーは、ユダヤ人1100人をナチスドイツから救ったが、彼は工場経営者で、ユダヤ人を労働者で使っていた。ユダヤ人がいなくなると、工場を閉鎖しなければならなくなるので、ユダヤ人をかばったのである。人道的な目的の他に実利的理由があったが、リトアニア領事官代理の杉原千畝(ちうね)は、「涙を浮かべて嘆願する人たちを追い返すことは、私にはできなかった」との理由だけで、ユダヤ人約2000人にビザを発行した。もちろん一銭も要求していていない。彼は、昼食をとらず、万年筆が折れ、腕が動かなくなってもビザを発行し続けた。領事館を退去した後もホテルの中でビザを発行し続け、リトアニアのカウナスを出る列車の中でも、発車までの間ビザを発行し続け、ビザを受け取ることのできなかったユダヤ人には、ビザの複製を許し、領事の印鑑を渡した。杉原が例えビザを発行しても、日本政府が受け入れを拒否していたら、ユダヤ人は行き場を失っていた。1939年には、ドイツ系ユダヤ難民930人を乗せたセントルイス号が、イギリス、アメリカに向かったが、両国とも武力で接岸を拒否され、已む無くドイツに帰って大半が収容所に送られたのだ。日本に着いたユダヤ人たちは、敦賀港で温かい歓迎を受けた。ヨーロッパを虫けら同然に追い立てられたユダヤ難民にとって、日本人の温かい接し方が大きな救いになった。米国シオニズム協会副会長のサミュエル・マンスキーは、「敦賀は、私たちにとってまさに天国でした。街は清潔で人々は礼儀正しく、親切でした。リンゴやバナナを食べることができました」金のないユダヤ人を不憫に思い、敦賀の果物店が、ユダヤ人に果物を配ってやったのだ。風呂屋は無料で銭湯を解放してあげた。これが、もし後進国や弱いものを差別するどこかの国の住民なら、ユダヤ人をどれほど軽蔑し、虐めたか想像ができない。後続の章で詳述するが、中国人観光客を騙してぼったくる韓国の土産物店の店員のように、ユダヤ人を騙してなけなしの金を巻き上げていたのだ。


 1938年3月ソ連邦と満州国の国境の街オトポールに1万人以上のユダヤ人が足止めされた。ヨーロッパを脱出し、満州国への入国を希望したが、シベリアの極寒の中、凍死寸前であった。満州国政府は、ナチスドイツとの関係があり、対応に苦しんでいたが、ハルビン特務機関長樋口季一郎少将は、関東軍の東条英機参謀長に「日本はナチスの属国ではない。ヒットラーのお先棒を担いで弱い者いじめをするのが正しいことですか」と訴え、受け入れを説得すると東条は承諾し、後にナチスドイツから抗議を受けたときも、東条は「人道的な配慮で行った」と、これを一蹴した。日本政府も1939年12月に近衛内閣が、五相会議で「ユダヤ人対策要綱」を作成し、「我が国は、八紘一宇(はっこういちう)の国である。ユダヤ人排斥は、日本の人種平等と言う精神に合致しない」と謳い、ユダヤ人を差別しないことを公言した。樋口は、満州国鉄道総裁松岡洋右(後外相)の助けを借りて、特別列車を仕立ててユダヤ難民の輸送にあてた。東条も松岡も悪人の代名詞のように言われるが、窮地に陥った人々を救っているのだ。ユダヤ人たちは、「まさか日本人が助けてくれるとは思わなかった」と振り返っている。


 第一次世界大戦でポーランドは戦場となり、撤退するロシア軍に村や町を焼き払われ、追い立てられた多くのポーランド人がシベリアで難民と化していた。金はなく、食料、医療品もなく、餓死、病死、凍死、戦いに巻き込まれての虐殺などで次々に命を落としていった。僅かに残った食料を子供に与えて餓死する母親、母親に抱きついたままで凍死する幼児、空腹から雪を食べる子供と言った地獄の光景が展開された。絶望のあまり子供を残して自殺する母親もいた。親を失ってシベリアを流浪する孤児を救済するために、ポーランド救済委員会が欧米諸国に援助を懇願したが、全て断られた。日頃は正義をかざすアメリカ政府とアメリカ赤十字からも断られ、最も期待した米国ポーランド協会からも断られ、途方に暮れていた。おまけにロシア通貨ルーブルの暴落で、苦労して集めた資金は底をつき、更にロシア・ポーランド戦争が勃発して、ポーランドへの列車輸送が困難になった。しかし、ここで奇跡が起きる。”ダメもと”で孤児救済委員会が、「縁もゆかりもない国」日本に孤児の救済を要請すると、17日後に日本政府から救済に応じる旨の連絡があったのである。


 広いシべリアの大地で孤児を探しだすのが大変な作業であったが、孤児救済委員会の副会長ヤクブケビッチは、「日本陸軍の庇護の下に、シベリアの奥地からウラジオストックまで、孤児を探し出してある時は陸軍の自動車で、ある時は列車で輸送してもらった」と語っている。当時の孤児は、最年少が2歳、最年長が16歳、平均は13歳であった。孤児の世話をさせるために、日本赤十字は孤児10人に1人の割合で大人のポーランド人を招いた。餓死寸前であった765人の孤児は、腹いっぱい食べ、医療手当を受け、文字通り絶望の淵から元気一杯な子供になったのである。ポーランド孤児を襲った悲劇は、メディアに紹介され、日本中から義援金が寄せられ、多くの日本人がボランティア活動や慰問に訪れ、食料品、衣服、おもちゃなどを孤児たちに与えた。さらに各種の団体が、活動写真(映画)の上映会、動物園、博物館の見学、各種イベント、遠足、食事会などを催して親を失った孤児たちを慰めた。


 孤児たちは、2班に分かれて神戸港と横浜港から未だ見ぬ祖国に向かって帰ることになったが、乗船の日には、「日本にいたい」「もう、どこへも行きたくない」「日本の皆と暮らしたい」と看護師や保母に抱きついて泣いて乗船を嫌がった。「ありがとう」「さようなら」の片言の日本語を連発して別れを惜しんだが、孤児たちは甲板で「君が代」を合唱して、泣きながら互いに見えなくなるまで手を振り続けた。ヤクビケビッチは、「憐れむべき不運な孤児たちに対する日本人の振る舞いは、言葉では表現できない。母親が我が子を愛するがごとくに擁護愛撫し、シベリアで受けた堪えがたい苦痛を一刻も早く忘れるように努めてくれた。孤児たちは、生まれ変わったような気持ちと身となった。我々ポーランド人は、肝に銘じてその恩を忘れることはない。ポーランド国民も日本人同様高尚な国民であるがゆえに、我々はいつまでも恩を忘れない国民であることを日本人に告げたい」と語った。


 孤児たちは、ポーランド帰国後グダニスク郊外の施設に収容され、集団生活を営むことになったが、そこでの合言葉は、「日本への感謝を忘れるな」であった。そして「君が代」「うさぎとかめ」を歌ったり、着物姿でお遊びをして楽しんだ。日本を身近に感じることに喜びを見出したのである。ある施設から送られたボート2艘には、「サダコ」「カトリ」と命名したが、「サダコ」は、皇后陛下の名前、「カトリ」は帰国船「香取丸」が、名前の由来である。ポーランド人孤児たちは、成長して収入を得ると、その一部を貯金に回したが、これは、日本に再び行くための「夢貯金」であった。日本の地を再び踏んで日本人にお礼を言いたかったのであるが、ポーランドがその後に経験しなければならなかった数奇な運命ゆえに、日本への再上陸は遂に叶わなかった。しかし、数か月間の日本滞在の経験が、孤児たちの人生の宝物になったことは確かで、ある孤児は、「自分たちがシベリアで経験したことを子供たちに許してはならない」と、孤児院を開設した。アントニナ・リロさんは、第二次世界大戦中にナチスドイツからユダヤ人の子供を匿(かくま)い、イスラエル政府から「諸国民の中の正義の人賞」を送られた。この賞は、杉原千畝が受賞した賞と同じものである。彼女が、自身の危険を顧みずにユダヤ人の子供を匿ったのは、子供の頃に日本人に受けた恩を感謝していたからである。高齢になった孤児たちは、「日本はまるで天国のようなところでした」「日本人から受けた親切を宝物のようにして生きて来た」「感謝で胸が一杯です」「日本の援助でこうして生きています」「自分たちを救い出してくれた美しくて優しい日本に是非ともお礼を言いたかった」「いつか恩返しをしたいと思って生きて来た」と語っている。ポーランド人もまさか縁もゆかりもない日本人に助けてもらうとは思っていなかったであろう。


 1890年9月にトルコ軍艦エルトゥール号が紀州沖で遭難した際に乗員を日本の寒村の漁民が献身的に助けた。貧しい漁民たちは、村中総出で救助に当たり、生活のために保存していた食料を遭難者に与え、海水で冷えた遭難者の体を温めるために体を密着させて介抱した。このように日本人は、困っている人を助ける気高き精神を持つ。これがどこかの国民であれば、どうなっていたか。ユダヤ人もポーランド人もトルコ人も見殺しにしていたことは間違いない。


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