第三十一章 日本統治時代のインドネシア



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 インドネシアは、1942年に日本人が進出するまで、340年間オランダに支配されていた生粋の西洋列強の植民地である。オランダは、インドネシアで搾取しまくった。19世紀にコーヒー、紅茶の栽培を農民に強制し、これらの産物の貿易でオランダが得た収入は、当時の国家予算の3分の1に達した!しかし、コーヒー、紅茶の耕地面積は、全耕地面積の5分の1に及び、ジャワ・マドゥラ地方では、全人口の半分の400万人が強制栽培に駆り出された。嗜好品の大量栽培で、食料の自給が困難になり、穀物価格が高騰して餓死者が続出し、平均寿命が35歳まで低下した。1850年に発生した食料不足では、ドゥマック村の人口は34万人から12万人に、ゴロボガン村では9万人が9千人に減少した!


 

 オランダは、天然資源の開発のために大量のインド人、中国人を苦力(くーりー)としてインドネシアに移住させ、経済流通活動にも従事させたが、このために彼ら外国人が、インドネシア人を支配する構造が出来上がり、後の深刻な人種対立の原因になった。オランダ人は、嗜好品の強制栽培の他にインドネシア人に重税を課して苦しめたが、移住してきた中国人(華僑)の高利貸しが、200%の高利で更にインドネシア人を搾取した。オランダ人は、オランダ人とインドネシア人の混血児を作り、この混血児と華僑のみに行政に当たらせ、現地人は行政から徹底的に排除した。混血児と中国人をオランダ人の犬にして、インドネシア人を看視させたのだ!インドネシアは、多数の部族からなる多部族国家、多言語国家であるが、オランダは、各部族間の対立を煽り、反目し合うように仕向けて、インドネシア人が団結してオランダに歯向かうのを防止した。西洋人得意の分割統治である。住民が、武力闘争を起こさないように、住人の集会は一切禁止し、青年の体育、団体訓練を禁止し、数人の行列行進も禁止した!独立運動家は、死刑にするか、ニューギニアなどへ島流しにした。


 現地人の知的レベルが上がると、独立運動が起きるので、オランダ人は、現地人への教育活動を禁止した。しかし、世界的な非難に直面して20世紀になって3年間の初等教育を実施した。僅か3年間である。しかし、この3年間学校も、当時通えたのは児童全体の数%であった。これは分割統治同様西洋人が最も得意とする「愚民政策」というやつである。自国の利益を永遠に保持するために、現地人を無知文盲の状態に維持する政策のことだが、日本人が、韓国、台湾、パラオ、ブルネイで行ったのとは正反対の政策である。オランダ人は、現地人のイスラム教を弾圧し、キリスト教が強制されたが、これも日本人とは正反対の政策だ。同じ植民地支配と言っても、日本人と西洋列強のやり方は、ことごとく正反対であることがわかるのだ!日本人が、植民地でいかに素晴らしかったが理解できるはずだ。

 日本人のインドネシア統治は、1942年からの3年間であったが、日本人は教育を重視し、6年間の初等教育を開始した。学校ではオランダが禁止した体育が重視され、インドネシア人の教師を養成するために師範学校を設立し、その他に農業、漁業、造船、鉱業、医学などの専門学校、訓練学校を設立した。ジャワ島に中央参議院、各州に州参議院を設立してインドネシア人を高級官僚に積極的に登用して行政に当たらせた。250を超える言語の中からジャワ島を中心に使われていたムラユ語を統一言語に指定して、新聞、ラジオ、映画、学校教育に使ったので、民族の統一意識が培養され、一体感が生まれた。また当時インドネシアで存在したイスラム教徒内の宗派対立の火種を消し、更に多数存在した部族間の紛争の火種を消した。現在中近東に見られるように、イスラム教徒内での宗派対立は激烈で、血で血を洗う抗争を続けていて融和は困難な状況にあるが、日本人が部族間の対立を含めて、その火種を強権によって消した功績は、韓国における階級制度の廃止同様、限りなく大きいと言わざるを得ない。農業では稲作を奨励して自給自足体制を確立させた。オランダ人は、インドネシア人を自国の利益のために、分断化し無知文盲状態に置き、農業を破壊したが、日本人はインドネシアの国の発展とインドネシア民族の繁栄を図ったのだ!


 日本人は、100万人の青年団、150万人の警防団、婦人団、学徒隊、隣組などを組織し、独立を目指す青年団(アンカン・ムダ)には、全国大会の開催を許した。更に祖国防衛義勇軍を創設してインドネシア人からなる初めての軍隊を組織した。この義勇軍が、日本敗戦後にインドネシア独立のために戦うことになるのだ!日本人は、さらにオランダによって追放されていた政治犯のスカルノ、ハッタなどの独立運動家を釈放して民衆の指導者にした。日本人は、このようにインドネシアの西洋列強からの独立を助けたのである。もし、日本軍が、西洋列強のように搾取のためにインドネシアに進出したのであれば、スカルノ、ハッタなどの独立運動家を釈放していない!、また、統一言語を指定して、民族の統一意識を培養していないし、各種の団体を組織して民族の連帯感を高めていないのだ。日本人が、植民地で目指したものがなんであったかは、インドネシアを見れば一目瞭然である。


 日本は、1944年9月にインドネシアの国旗掲揚と国歌の斉唱を認め、1945年3月に独立準備委員会を発足させた。8月15日に日本が降伏したので、予定を早めて8月17日にスカルノ、ハッタ、ラジマンらが独立宣言を行い、スカルノが初代大統領に就任した。独立宣言の日付は西暦ではなく、皇紀(2005年)が使われている。独立後に憲法を公布したが、規定第2条に「日本軍政期に有効であった法制度は、引き続き有効である」と記されている。皇紀が使われていること、規定第2条の内容からインドネシア人が、西洋人に強く反発し、日本人に深く感謝していたことがわかるのだ!


 日本敗戦後に、欲の皮の突っ張った西洋人が再びインドネシアで甘い汁を吸おうと帰ってきたが、そこには、日本軍によって大和魂を叩き込まれ、過酷な軍事訓練に耐え抜いた38000人のインドネシア祖国防衛義勇軍の精鋭が待ち構えていた!もはやインドネシア人は、負け犬ではなかった。おまけに彼らは、自分たちと同じ背の小さい色の黄色い日本人が、白人を打ち負かすのを目撃していたのだ。インドネシア兵は、ひるむことなく、死を恐れることなく、オランダ、イギリス連合軍に立ち向かった。武器が乏しかったので、竹槍、刀剣、毒矢、罠などを使い、また、連合軍の武器庫から武器弾薬を奪ったりした。祖国防衛義勇軍の中には、敗戦後にインドネシアに残った旧日本軍人2000人も混じっていた。旧日本軍人は、連合軍の眼を盗んで大量の武器をインドネシア人に手渡し、インドネシア兵を指揮して、先頭に立って戦った。旧日本軍人は、その半数が戦死したが、彼らは、ジャカルタ郊外のカリバタ英雄墓地に埋葬されている。生き残った旧日本軍人の中にはインドネシア最高勲章を授与された者もいる。


 日本軍の占領政策には、もちろんよいことばかりではなかった。戦争遂行のために食料の供出を強制したので、住民が餓えに苦しんだ時期があった。タイ・ビルマ国境の鉄道施設のために10万人のインドネシア人がタイに送りこまれ、2万人近い犠牲者を出している。しかし、西洋人の支配は、よいことは全くなく、悪いことのみであったが、日本人のそれはよいことの方が多かったのだ!その証拠にインドネシア人は、独立宣言に西洋歴ではなく、既述したように皇紀を使っている。インドネシア独立記念日には、今でも男たちは、竹槍、こん棒、刀剣、弓などをもってパレードを行い、女たちは、日本語で「愛国行進曲」を空で合唱するのだ!これによりインドネシアの人々が、西洋人に激しい敵意を抱き、日本人に好意を抱いていることがわかるのだ。韓国人、中国人の犬である日本の左派系メディア、左派系政治家たちは、旧日本軍の悪い面ばかりを殊更強調し、よい面は歴史から抹殺しようと図ってきたが、これは、明らかにして卑劣な歴史の歪曲である。日本軍人が、西洋人の過酷な植民地支配を終わらせ、アジアの諸民族を解放するために巨大な貢献をしたことは明らかな事実であり、大東亜共栄圏の思想は実際に機能し、歴史的な役割を果たしたのだ。


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